大判例

20世紀の現憲法下の裁判例を掲載しています。

東京地方裁判所 平成5年(ワ)24976号 判決

原告

貝塚純二

原告

木村純夫

原告

菱山雅夫

原告

池原庸之

原告

寺田巖

原告

湯川茂樹

原告

鬼釜芳正

右原告七名訴訟代理人弁護士

野嶋真人

原告

末吉厚志

原告

松代修平

右原告九名訴訟代理人弁護士

清水洋二

野澤裕昭

今村核

則武透

被告

右代表者法務大臣

下稲葉耕吉

右指定代理人

小暮輝信

湯川浩昭

飯山義雄

泉宏哉

久埜彰

西山大祐

秋葉信明

星利明

江副貴雄

八木裕昭

主文

一  原告らの請求をいずれも棄却する。

二  訴訟費用は原告らの負担とする。

事実及び理由

第一請求

被告は原告貝塚純二に対し八〇万九九五九円、原告木村純夫に対し一二二万九一二三円、原告菱山雅夫に対し一二八万〇〇八六円、原告池原庸之に対し八一万九一二九円、原告寺田巖に対し七七万〇五五一円、原告湯川茂樹に対し八八万六一一四円、原告鬼釜芳正に対し七九万五一〇五円、原告末吉厚志に対し六二万三〇〇五円及び原告松代修平に対し六二万一一二一円並びに右各金員のうち別紙(略)「原告別損害額一覧表」(一)合計欄記載の各金額に対する訴状送達の日の翌日(右の原告貝塚純二から原告鬼釜芳正までの原告ら七名(以下「原告貝塚ら七名」という。)については平成六年二月一日、原告末吉厚志及び原告松代修平(以下「原告末吉及び原告松代」という。)については平成七年八月一七日)から、その余の各金額に対する平成九年三月六日から各支払済みに至るまで年五分の割合による金員をそれぞれ支払え。

第二事案の概要

本件は、郵政省職員である原告らが、その所属する各郵便局の郵便局長から違法な業務命令等により胸章着用を強制されるとともに、胸章着用拒否を理由に訓告を受けて定期昇給を一号俸分減ぜられたとして、被告に対し、国家賠償法一条一項に基づき、右減ぜられた賃金相当額及び慰藉料等の損害賠償の請求をした事案である。

一  争いのない事実

1  原告ら

原告らは、いずれも東京郵政局管内の別紙「原告別損害額一覧表」(一)及び(二)の各原告欄記載の各郵便局の各所属課に勤務する郵政省職員である。

2  胸章着用要綱の制定・施行

東京郵政局長は、平成三年八月三〇日、東京郵政局管内の各郵便局長らに宛てて、同管内の各郵便局、各事務センター及び東京郵政局の職員に対し勤務時間中に胸章(所属局所名・課名・役職名・氏名を記載)を左胸部に着用すべきことを内容とする「胸章着用要綱」(平成三年八月三〇日付け東京郵政局長達第三八号、以下「要綱」という。)を定め、同日からこれを施行した。

3  新宿、杉並、新宿北各郵便局における胸章着用指導

新宿郵便局では平成四年二月二八日、杉並郵便局では同月二四日、新宿北郵便局では同月二二日、職員用掲示板への掲示により、各郵便局長名で各郵便局に勤務する職員に対し、要綱に基づき胸章を着用すべきことを周知した。

そして、原告らが勤務する新宿、杉並、新宿北郵便局の郵便局長(以下「本件各郵便局長」という。)ら管理職は、原告らに対し、別紙「胸章着用指導行為一覧表」記載のとおり、文書(口頭)警告・業務命令及び右業務命令に従わないことを理由とする注意・訓告を行った(以下「本件胸章着用指導行為」という。)。その結果、原告らは、引き続く一年以内において受けた訓告が三回以上になったことから、「定期昇給等の実施について」(平成四年三月三一日付け郵人要第九六号依命通達)に定められている「昇給の欠格基準」に該当したため、原告貝塚ら七名については平成五年以後、原告末吉及び原告松代については平成六年以後、平成八年までの各四月の定期昇給時にそれがなければ昇給すべき号俸数から一号俸を減ぜられた。なお、減ぜられた額は、別紙「原告別損害額一覧表」(一)及び(二)の各「昇給一号俸減額にともなう損害」欄記載のとおりである。

二  主たる争点

本件胸章着用指導行為は違法であって、被告は原告らに対し、国家賠償法一条一項に基づき損害賠償義務を負うか。

三  原告らの主張

1  本件胸章着用指導行為の違法性ないし権利侵害

(一) 胸章着用義務づけ法規の不存在

原告らは、いずれも国営企業である郵便事業を行う郵政省に勤務する職員であるから、国営企業労働関係法・労働基準法の各適用を受け、「法律による行政の原理」により、法令上の根拠なくして、上司の職務上の命令に従う法的義務を有しない。しかるに、本件各郵便局長らは、何らの法的根拠なくして発せられた要綱に基づき、原告らに対して、胸章の着用を強制し、不利益処分をしたものであるから、違法性は明らかである。

被告は、郵政省職員は上司の職務上の命令に従う義務があると主張するが、国家公務員法(以下「国公法」という。)九八条一項、郵政省就業規則五条二項、七条、「法律による行政の原理」及び国家行政組織法一二条一項、四項に照らすと、原告ら職員は、法令に根拠を有する上司の正当な職務遂行命令にのみ従う義務があると解すべきところ、胸章着用については法令上の根拠がない。

(二) 労働契約及び就業規則違反

原告らが使用者である郵政省に対して負担している労働契約上の義務内容は、郵便集配業務とこれと密接かつ合理的に関連する業務に限られる。したがって、原告らは、郵便集配業務に必要不可欠でなく、密接かつ合理的な関連性を有しない胸章の着用については、労働契約に基づく履行義務としての胸章着用義務を有していない。また、平成九年三月二六日付けで郵政省就業規則が改正されるまでは、就業規則上は、胸章着用に関する明文の根拠規定は存しなかった。よって、胸章着用義務に関する労働契約上及び就業規則上の各根拠規定は存しないから、原告らが胸章着用義務を有しないことは明らかである。

(三) 胸章着用強制による権利侵害

(1) 労働者人格権の侵害

「労働者人格権」とは、労働契約上の義務として、あるいは基本的人権の尊重を基本原理とする日本国憲法の適用下にある労使関係であることを根拠として、職場における労使関係において、憲法上の人権ないしそれから派生する人格権が、その職場の実態に即して個々の労働者に保障されるべきであるとする概念である。

原告らは、胸章に関し、郵便集配業務との関連性や必要性がないにもかかわらず、本件各郵便局長らから胸章の着用を強制され、原告ら労働者が職場において保護されるべき精神的自由権(労働者としての尊厳・業務外の自己情報の開示の是非について自由に決定をする権利等)を侵害され、労働者人格権を著しく侵害された。

(2) 個人の尊厳・自己決定権の侵害

幸福追求権の一内容としての人格権・自己決定権・プライバシー権等が、憲法一三条に基づく具体的な権利として、原告らにも保障されている。

原告らは、自分が担当する郵便集配業務との関係では、自分の氏名・役職等を表示した胸章を着用することの必要性などないと考えており、自分の氏名・役職等人格にかかわり、かつ、余り他人には知られたくない事項を不特定多数人に対して常時公表し続けることに耐え難い苦痛を感じている。それにもかかわらず、原告らは、本件各郵便局長らから胸章の着用を強制されて不利益処分を課せられ、その結果、個々人の氏名公表の強制という形で氏名秘匿の人格権を侵害され、氏名・役職等を対外的に公表するか否かについての自己決定権を侵害され、秘匿しておきたい氏名・役職等の公表を強制されることによって自己情報のコントロール権としてのプライバシー権をも侵害された。

以上のとおり、原告らが、胸章の着用強制により侵害されているのは、原告らの人格権・自己決定権・プライバシー権であって、単なる法律上の利益にとどまらず、憲法一三条によって保障された人権であり、この権利は、精神的自由権の中でも、個人の人格の中核をなすものであるから、その違憲審査の基準は厳格な基準によるべきである。

(四) 労務管理の手段としての胸章利用

一九六〇年代後半から郵政省当局が生産性向上運動(いわゆるマル生運動)を開始し、これに反対する全逓信労働組合(以下「全逓」という。)との間で激しい労使紛争が展開されたが、その過程で、郵政省当局は、全逓攻撃の一環として、一九七〇年代に入り、当局への迎合路線をとる全日本郵政労働組合との間で露骨な差別政策を行った。その際、郵政省当局により、当局への忠誠を誓い、全逓を裏切る「踏み絵」として、胸章の着用が利用された。全逓は、この当局による胸章を利用した組織切り崩し攻撃に対し、胸章着用を拒否し、不着用者拡大の方針をとっていたが、昭和五八年、全逓本部は従来の方針を大転換し、「不着用者を拡大するとの方針はとらない」との方針を打ち出すに至った。しかし、全逓が大きく方針転換した後も、多数の組合員は、かっ(ママ)て郵政省当局により不当労働行為の道具として利用された胸章を従来どおり着用しないという方針を貫いてきたのである。

(五) 胸章着用の業務上の必要性の不存在

郵政事業のうち、郵便事業以外の各事業は、利用者の経済生活、経済活動に関するものであり、同様のサービスは民間企業にも求めることのできる代替性を有するものであるのに対し、原告らが従事する郵便事業は、憲法二一条二項の「通信の秘密」を中心とする国民の基本的人権と密接な関係を有しており、その事業運営は国民の人権に重大な影響を及ぼす公共性の高い性格を有し、他の郵政事業とは自ずから性格の違いが存する。また、郵便事業は「独立採算制」といっても、独立採算により利潤を生むために行われる営利事業ではなく、郵便料金収入により事業運営に必要な費用を賄うという原則、すなわち、「独立採算収支相償の原則」により運営されるべき事業であり、飽くなき利潤の追及を行う私企業とは異なり、赤字を出さなければ足りるという事業運営が求められているにすぎない。したがって、被告の郵政事業の特質についての主張は失当である。

また、(1)利用者が当初からトラブルを予想して、担当職員の胸章の氏名を確認することなどめったになく、利用者は日時、窓口、担当者の顔を手掛かりにして適切な対応を求めることが可能であり、また、実際にそうしていて、胸章着用は国民の信頼を得ることにならず、(2)胸章着用以前の郵政省職員や胸章を着用していない公務員に職責の自覚がないわけではなく、胸章着用の強制により特に職責の自覚が向上したとの具体的証明もなく、(3)胸章着用と職員間の連帯感の醸成との因果関係は乏しいし、(4)部外者と職員との識別は、顔若しくは制服によってなされるのであって、胸章によってなされているのではないし、胸章の着用は郵便局で発生している犯罪の防止に役立たず、被告主張の胸章着用の効用は合理的根拠がない。

以上のとおり、胸章を着用させる業務上の必要性は全く存在しないというべきである。

(六) 業務命令権・服務統督権限行使における権限の逸脱ないし濫用

前記のとおり、本件各郵便局長ら管理者が、原告らに対して説明抜きで強権的に発した胸章着用を命じる職務命令は、原告らの担当する郵便集配の職務遂行との関連性という点から考えた場合、胸章着用の必要性・合理性が存しないうえ、法令上の明白な根拠もなく、かつ、原告らの労働者人格権ないし憲法上の権利を侵害して原告らに著しい不利益を与えるもので、その違法性も明らかというべきであるから、このような違法な(重大かつ明白な瑕疵がある)職務命令に従わないことを理由としてなされた原告らに対する訓告処分等は、本件各郵便局長らが、業務(職務)命令権と服務統督権限を著しく濫用したものとして、原告らに対しては法的効力を生じないものというべきである。

2  被告の責任

本件各郵便局長(事務代理者を含む。)は、いずれも国家公務員であるところ、別紙「胸章着用指導行為一覧表」記載のとおり、原告らに対し、平成四年三月一一日から平成八年三月末日までの間、多数回にわたり、故意若しくは重大な過失により、違法性を有する胸章着用強制の業務命令等を発するとともに、不利益処分等を行って原告らの権利を侵害するという不法行為をしたものであるから、被告は、国家賠償法一条に基づき、原告らに対し、損害を賠償する責任を有する。

3  原告らの損害

(一) 慰藉料

原告らは、前記のように、本件各郵便局長らによる違法な業務命令ないし不利益処分等により、労働者としての人格権を侵害されるとともに、人間としての尊厳を傷つけられ、私的生活領域における自己決定権を著しく侵害されるなどしてきた。そして、原告らは、その度に厚い壁を爪でひっかくような絶望感と精神的苦痛を被ってきたものであるから、原告らの右のような精神的苦痛に対する慰藉料は、原告各自につき五〇万円を下回らないというべきである。

(二) 賃金(定期昇給一号俸分)の減額

また、原告らは、前記争いのない事実3記載のとおり、本件胸章着用指導行為により、それぞれ別紙「原告別損害額一覧表」(一)及び(二)の「昇給一号俸減額にともなう損害」欄記載の額の損害を被った。

(三) 弁護士費用

原告らは、右のとおり本件各郵便局長らによる不法行為によって損害を被り、本訴提起のために多額の弁護士費用の支出を余儀なくされたものであるから、弁護士費用のうち少なくとも請求額の一割(一〇〇〇円未満切り捨て)相当額が右不法行為と相当因果関係のある損害というべきである。

四  被告の主張

1  胸章着用義務づけの適法性

(一) 郵政事業の特質

郵政省が遂行する郵便事業、郵便貯金事業及び簡易生命保険事業等(以下「郵政事業」という。)は、国民生活と密接な関連を有し、極めて公共性の高い性格を有している。したがって、郵政事業は、郵便、郵便貯金及び簡易生命保険等の役務を、できるだけ安価に、国民全体にあまねく公平確実に提供し、それによって、国民の経済生活の安定を図り、公共の福祉を増進することを目的として運営されなければならず、また、独立採算制が採られていることから、支出に見合った収入を確保するために、企業的、能率的な経営を図らなければならない。

(二) 胸章着用の必要性及び合理性

胸章着用は、対外的には、利用者である国民にサービスを提供する取扱者の氏名を明らかにし、もって利用者である国民の信頼を得ることにより、より一層のサービスを図ることを、対内的には、組織運営に当たって、自己の氏名を明らかにすることにより、職員自身の職責の自覚を促し、自己規律及び職員間の連帯感の醸成を図ることを目的とするものである。すなわち、胸章の着用は、郵政事業が右(一)のような特質をもち、郵政事業に携わる職員についても、その一人一人が郵政事業の使命を認識し、自己の職責の重大性について自覚をもち、職員間の連帯感を高めるとともに、利用者である国民に信頼され、安心して利用され、親しまれるサービスを提供することが要請されていることから、こうした要請に応えようとするものである。加えて、胸章は、庁舎内における職員と部外者との識別の手段として防犯上有効であり、そのことも胸章着用の目的となっている。なお、胸章の着用は、全職員が一体となって取り組んでこそその本来の趣旨を全うすることができるのであるから、利用者に接する職員であるか否かでもって胸章を着用すべきか否かを区別する理由はまったくない。

一方、原告ら職員に着用を命じた胸章は、概ね縦三センチメートル、横五センチメートル程度の形状のもので、勤務時間中に限り被服に着用すれば足りるものであり、胸章に表示されている内容も、勤務する郵便局名、課名、自己の氏名等、職員と業務との関連を明らかにするうえで必要最小限度の事項に限られているものであるから、胸章を着用する職員に対して、特別過重な負担や不利益を強いるものではないし、ましてや原告らのいう労働者としての人格権や人間としての尊厳ないし個人の尊重や自己決定権なるものを侵害するものでもないことは明白である。さらに、胸章は、氏名を表示する方法として最も簡易で有効なものであって、他の民間企業や官公庁等においても活用されているものであり、一般的で社会通念上も認められている方法である。

よって、胸章着用の目的とその態様に照らせば、職員に対し胸章の着用を義務づけることは、郵政事業の使命を達成するうえで合理的かつ極めて有効な制度であり、正当な理由があり、なんら違法な権利侵害にあたらない。

(三) 胸章着用の義務づけの法的根拠

郵政省職員は、国の経営する事業に勤務する職員であることから、法令及び上司の命令に従う義務(国公法九八条一項)を負っている。

また、国家行政組織法一〇条、郵政省設置法一二条、六条一項、九項、郵政省職務規程二条により、郵政省においては、各郵便局長等が、当該郵便局等の所属職員の服務を統督する権限を有している。

そして、東京郵政局管内における胸章着用は、要綱を受けて、郵便局長等が、前記(二)の目的に沿って所属職員に対し胸章の着用を命じるとともに、不着用者に対し着用の徹底方を指導したものであるが、その命令の法的根拠は、国公法九八条一項(上司の職務上の命令)に求められる。すなわち、胸章着用命令は、右のとおり、服務統督権を有する郵便局長等が、事業運営上の必要性及び原告らの職務遂行上の必要性から、上司の職務上の命令として、その部下職員に対して行ったものである。

なお、国公法九八条一項を受けた郵政省就業規則五条二項は「職員は、その職務を遂行するについて、法令及び訓令並びに上司の職務上の命令に忠実に従わなければならない。」と服務の根本基準を規定しているところ、右「職務上の命令」とは、上司が、法令に反しない範囲で、職員の職務遂行のみに限らず、職務遂行に関係のある一切の事項について発することのできるものであるから、胸章着用は、当然に職務上の命令として発することができるものである。

2  本件胸章着用指導行為の正当性

胸章の着用は、今回新たな施策として策定されたものではなく、従前から職員に周知・指導しており、従来から各郵便局等において、郵便局長等が、所属職員に対し胸章の着用を命じるとともに、不着用者に対し着用の徹底方を指導してきたところであるが、郵政事業をとりまく環境の変化に対応し、職員一人一人が職責を自覚して、利用者である国民に対し、今まで以上に信頼され、安心して利用してもらえるサービスを提供するため、要綱を発出したものであり、要綱は、従来、各郵便局等で励行されてきた胸章着用について、その目的に照らし、東京郵政局管内の各郵便局等の間の運用の統一を図るために文書の形式で示し、再指導したものである。そして、東京郵政局管内の各郵便局長らは、局内の掲示板に胸章着用の目的及び必要性等を内容とする文書を局長名で掲示し、課長等の管理者は、それぞれの課におけるミーティング等を通じて、胸章着用の目的及び必要性等を周知するとともに、勤務時間中は胸章を着用するよう指導した。しかし、再三にわたる上司の指導にもかかわらず胸章を着用しない職員に対しては、各郵便局長等は、今後も胸章を着用しない場合は、より厳正な措置を講ずる旨警告し、この警告にも従わずなお胸章着用を拒み続けた職員に対しては、職務命令であることを明らかにして胸章を着用するよう命令を発し、右職務命令にも従わない職員に対しては、職務上の命令違背を理由として、文書により注意を行い、それでも従わない職員に対しては訓告に付したのである。したがって、原告らに対する訓告は、原告らが胸章着用を命じる適法な職務命令に違背したことから、各郵便局長がその権限に基づき原告らに対しその義務違反等の内容を知らせて将来を戒め、国民全体の奉仕者としての公務員(郵政職員)のあるべき姿を期待し、指導育成のために行った措置の一つであって、何ら違法性を有するものではない。

第三争点に対する判断

一  本件胸章着用指導行為の法的根拠について

原告らは、本件胸章着用指導行為は法的根拠がない旨主張する。しかし、国家公務員である原告ら郵政省職員は、法令及び上司の命令に従う義務を負っており(国公法九八条一項、郵政省就業規則五条二項)、また、職員に対する服務統督権限は、国家行政組織法一〇条、郵政省設置法一二条、六条一項、九項、郵政省職務規程二条により、郵政大臣から委任を受けた郵便局長等が有しているところ、(証拠・人証略)並びに弁論の全趣旨によれば、本件胸章着用指導行為は、東京郵政局長による要綱を受けて、管内の各郵便局長らが、右服務統督権に基づき、上司の職務上の命令として、その部下職員に対して行ったものであることが認められる。

原告らは、職員は、法令に根拠を有する上司の正当な職務遂行命令にのみ従う義務がある旨主張するが、国公法九八条一項、郵政省就業規則五条二項、七条によれば、職務上の命令は、法令に反しない範囲で、職務遂行に関係のある一切の事項について発することができると解され、胸章着用の義務づけ等の個々の職務命令それぞれに具体的な法令の根拠や法律の委任は必要ないというべく、原告らの右主張は採用できない。

また、原告らは、本件胸章着用指導行為は、労働契約及び就業規則違反である旨主張するが、そもそも現業国家公務員の勤務関係は基本的に公法関係であり、労働契約を前提とする原告らの主張はその前提自体採用できないうえ、本件胸章着用指導行為は、右のとおり、国公法九八条一項、郵政省就業規則五条二項に基づく上司の職務上の命令としてなされたもので、その内容も、職務遂行に関する細目というべき事柄であり、就業規則上の個別具体的な根拠規定は必要ではないというべきである。

二  本件胸章着用指導行為の違法性ないし権利侵害について

1  前記争いのない事実に加えて、(証拠・人証略)並びに弁論の全趣旨によれば、次の事実が認められる。

(一) 郵政省は郵便事業、郵便貯金事業及び簡易生命保険事業等の郵政事業を営んでいるが、これらの事業は、国民に対し、それぞれの役務をあまねく公平確実に、かつ、できるだけ安価に提供し、それによって、国民の経済生活の安定を図り公共の福祉を増進することを目的としている(郵便法一条、郵便貯金法一条、郵便為替法一条、郵便振替法一条、簡易生命保険法一条)。そして、郵政事業においては、右各事業の性質上、多数の職員が不特定多数の国民と直接接触して役務を提供する職務に携わっている。郵政事業のこのような特質は、原告らが従事する郵便事業においても異なるところはない。

(二) 東京郵政局長は、平成三年八月二〇日、要綱を制定して同郵政局管内の職員に胸章着用を義務づけたが、その目的は、対外的には、利用者である国民にサービスを提供する取扱者の氏名を明らかにし、もって利用者である国民の信頼を得ることにより一層のサービスを図ることを、対内的には、組織運営にあたって自己の氏名を明らかにすることにより、職員自身の職責の自覚を促し、自己規律及び職員間の連帯感の醸成を図ることを目的とするものである。加えて、胸章が庁舎内における職員と部外者との識別に有効であることから、防犯の目的も有している。

(三) 要綱によれば、胸章は、勤務時間中に被服の左胸部の見やすい箇所に着用することとされ、胸章には、原則として、所属局所名、課名、氏名(姓のみでも差し支えない。)を記載することとされている。原告らに着用を命じられた胸章は、おおむね縦三センチメートル、横五センチメートルの大きさである。

(四) 本件各郵便局長らは、平成四年二月、局内の掲示板に職員宛て「胸章の着用について」と題する「職員は、胸章を着用することにより、職員としての自覚を高揚し、お客様に信頼され親しまれる仕事を行い、もって、お客様サービスの向上に資することを目的としており、「胸章着用要綱」によりその着用が義務づけられている」旨の文書を局長名で掲示し、課長等の管理職員は部下職員に対し、それぞれの課におけるミーティング等を通じて、勤務時間中は胸章を着用するよう指導した。しかし、原告らは、再三にわたる上司の指導にもかかわらず胸章を着用しなかったので、別紙「胸章着用指導行為一覧表」記載のとおり、本件各郵便局長らは原告らに対し、今後も胸章を着用しない場合はより厳正な措置を講ずる旨警告し、原告らがこの警告にも従わずなお胸章着用を拒み続けたため、胸章を着用するよう職務命令を発し、原告らが右職務命令にも従わないので、職務上の命令違背を理由として、文書により注意を行い、それでも従わないので訓告に付した。

2  本件の胸章着用義務づけの目的は右1の(二)のとおりであるところ、利用者である国民は、信書や貯金、保険等プライバシーに関わる情報や金銭の受渡し等の場において、取扱者が胸章によりその氏名を明らかにしていることに、安心感、信頼感を抱き、質問等もしやすく、また、職員も、利用者に対し氏名を表示して責任の所在を明示することにより、職責の自覚が促されるうえ、胸章には庁舎内における職員と部外者とを識別する効用もあって、防犯上の効果も期待しうるから、右目的は正当であるというべきである。

原告らは、胸章着用には右目的に沿う効用がない旨主張する。確かに、利用者が、あらかじめトラブルを予想して胸章に記載された氏名を記憶するというようなことは少ないかもしれないが、胸章を見て取扱者の氏名を記憶していて問い合わせ等が円滑に行われることがないとはいえず、そもそも利用者は取扱者が氏名を明示して応対していること自体に、安心感、信頼感を抱くのであって、胸章が利用者である国民の信頼獲得に役立つことは明らかである。また、職責の自覚、胸章着用による自己規律及び職員間の連帯感の醸成といった効果については、事柄の性質上これを可視的に検証することは困難であるとしても、証拠(〈証拠略〉)によれば、原告鬼釜芳正、原告湯川茂樹及び原告寺田巖が杉並郵便局集配課において実施した回答者匿名のアンケート調査においてさえ、胸章が職責の自覚の高揚に役立っているとする職員が約一八パーセントおり、胸章着用に右効果が認められることが窺える。ちなみに、右アンケートによれば、胸章が郵便配達に必要であるとする職員が約二一パーセント、胸章が利用者サービスの向上に役立っているとする職員が約二〇パーセント存在する。また、制服等が防犯に役立っているとしても、さらに胸章を着用させることが無意味であるとはいえない。

そして、本来、管理者は、職務命令の発出に当たって、ある目的を達成するために、どのような命令をどの範囲の職員に対して発するかなどの点について、合理的裁量権を有するというべきであり、胸章着用を職員に義務づけるについて、胸章着用が右のとおりの正当な目的に基づくものであり、かつ、それにより一応の効果を期待できる以上、仮に、その効用について具体的証明ができず、あるいは、他にもその目的達成のための手段があるとしても、胸章着用を義務づける職務命令が右裁量の範囲を逸脱し、あるいは濫用に当たるということはできないし、胸章着用の右目的からすれば、利用者と接触の多い職場に限定することなく、全職員に胸章着用を義務づけることも、右合理的裁量権の範囲内に属するというべきである。

3  そして、前記1の(三)で認定した胸章の形状、記載事項、着用態様のいずれも社会通念上相当と認められる範囲内であるというべきであり、近時、民間企業や他の官公庁においても、職員が胸章を着用している例がみられること(〈証拠・人証略〉)や、氏名は、社会的にみれば、個人を他人から識別し特定する機能を有するものであることからして、人は社会生活上の必要に応じて適宜氏名を表示しており、特に、職務中は氏名の表示が必要とされる場合が多いことからすれば、胸章着用に対する一般的な抵抗感も小さいというべきである。

4  なお、原告らは、かっ(ママ)て郵政省当局が全逓の組織切り崩し攻撃の道具として胸章を利用してきた旨主張するが、全逓自身昭和五八年に方針を大転換し、従来の胸章不着用者拡大の方針をとらなくなったことは、原告らの自陳するところであり、平成三年に制定された要綱に基づく本件胸章着用指導行為が、全逓やその組合員を差別し、攻撃するなど、不当労働行為の意図をもって行われたと認めるに足りる証拠はない。

5  以上判示の事情を総合考慮すれば、職員に対し、胸章の着用を義務づけることは、正当な理由があり、なんら違法な権利侵害には当たらないというべきである。そして、本件各郵便局長らは、事前に局内に前記「胸章の着用について」と題する文書を掲示して胸章着用が義務づけられていることやその目的を周知したうえ、ミーティング等において胸章着用の指示をし、これに応じない原告らに対して個別に指導を行っていること、訓告を行う前に、繰り返し警告や注意をしていること、原告らは、胸章の着用強制が違法であるとの確信に基づき、あえて業務命令に従わない態度をとり続けているものであることなどからすれば、本件各郵便局長らの行った本件胸章着用指導行為には、なんら違法はないというべきである。

三  結論

以上、本件各郵便局長らが原告らに対して行った本件胸章着用指導行為は、正当であって、いずれも違法ではないから、原告らの被告に対する国家賠償法一条一項に基づく本件請求は、その余の点について判断するまでもなく、いずれも理由がない。

(裁判長裁判官 萩尾保繁 裁判官 白石史子 裁判官 西理香)

自由と民主主義を守るため、ウクライナ軍に支援を!
©大判例